论王亚南的经济哲学思想
——在日本京都大学的讲演
中国厦门大学 张小金教授
(2005年3月16日下午于京都大学时计台纪念馆百周年纪念大厅)
(1)
会议司仪:京都大学经济学研究科八木纪一郎教授,以下简称八木。
现场翻译:日本大阪商业大学孙飞舟副教授。中国天津人,在中国读完日语专业本科,之后
又到日本读了10年书,然后在日本大学工作了5年。
以下日文部分,除八木说话之外,均为孙飞舟的现场翻译(日文根据现场录音整理,京都大学提供)
现场翻译:日本大阪商业大学孙飞舟副教授。中国天津人,在中国读完日语专业本科,之后
又到日本读了10年书,然后在日本大学工作了5年。
以下日文部分,除八木说话之外,均为孙飞舟的现场翻译(日文根据现场录音整理,京都大学提供)
八木:すぐにご意見を言われたい方もおられると思いますけれど、もう少しお待ちいただいて、次に張先生のお話をいただこうと思っています。それで、最初のセッションのところでお2人の報告について簡単なご意見等があれば、それを受けたいと思います。ですからちょっとお待ちいただくかたちで次に張先生のほうにはいりたいと思います。それから資料のコピーができておりますので、今お手元にない方おられますか? じゃこれを……。それでは張先生、お願いします。
各位女士,各位先生:
能够出席今天的会议,深感荣幸。我要特别感谢大西广教授的邀请和多方关照。
ご来場の皆様、本日の会議に出席できて非常に光栄に存じております。特に大西教授の招聘とご来場の皆様に感謝を申し上げます。
我是厦门大学的哲学教授。主要从事的是马克思主义哲学与中国的现、当代问题的相关研究。
私は中国の厦門大学で哲学の研究をしておる者ですけどれも、主にマルクス主義哲学および中国の近代、現代の問題との関わりについて研究をしているわけです。
今天,借此机会,向各位介绍厦门大学已故的老校长王亚南的经济哲学思想。
本日この場をお借りしまして、故厦門大学の校長である王亜南氏の経済・哲学思想を皆さんにご紹介したいと思います。
能够出席今天的会议,深感荣幸。我要特别感谢大西广教授的邀请和多方关照。
ご来場の皆様、本日の会議に出席できて非常に光栄に存じております。特に大西教授の招聘とご来場の皆様に感謝を申し上げます。
我是厦门大学的哲学教授。主要从事的是马克思主义哲学与中国的现、当代问题的相关研究。
私は中国の厦門大学で哲学の研究をしておる者ですけどれも、主にマルクス主義哲学および中国の近代、現代の問題との関わりについて研究をしているわけです。
今天,借此机会,向各位介绍厦门大学已故的老校长王亚南的经济哲学思想。
本日この場をお借りしまして、故厦門大学の校長である王亜南氏の経済・哲学思想を皆さんにご紹介したいと思います。
各门学科中都有少数顶尖人物,他们不仅是本专业领域的大家,而且其视野和境界跨越职业行业的界限,超越学科和专业分工的局限,而成为跨学科的大学者。
どの分野においても数少ないトップの人物がおります。彼らは自分たちの専門分野の大家だけではなくて、視野も境界も職業の限界を超えて、学科と専門分野の局限を超えて、学科を超えた大学者でもあるわけです。
王亚南不仅是杰出的经济学家,而且是出色的政治学家、教育家和社会活动家。之所以能如此,重要原因之一是他对哲学的较高的休养和领悟。
王亜南氏は有名な経済学者だけではなくて、優秀な政治学者でもあり教育者でもあり、さらに社会活動家でもあるわけです。やはり彼が哲学の分野において高い素養と理解力があるからであります。
どの分野においても数少ないトップの人物がおります。彼らは自分たちの専門分野の大家だけではなくて、視野も境界も職業の限界を超えて、学科と専門分野の局限を超えて、学科を超えた大学者でもあるわけです。
王亚南不仅是杰出的经济学家,而且是出色的政治学家、教育家和社会活动家。之所以能如此,重要原因之一是他对哲学的较高的休养和领悟。
王亜南氏は有名な経済学者だけではなくて、優秀な政治学者でもあり教育者でもあり、さらに社会活動家でもあるわけです。やはり彼が哲学の分野において高い素養と理解力があるからであります。
王亚南认为,经济学与哲学的共性在于“两者同是某一特定社会历史阶段的物质基础的反映,是特定历史阶段的社会意识。”区别仅仅在于与“所反映的社会物质基础距离的不同。”
王亜南氏は経済学と哲学の共通性についてこう述べております。2つのものは同じく特定の某社会歴史段階の物質基礎の反映である。特定歴史的段階の社会意識であると。この2つの相違は反映した社会基礎距離の違いにあると主張しているわけです。
由此距离的远近,王亚南称哲学是最高级的意识形态,因为“它距离物质基础最远,受社会物质基础的束缚最少”,而经济学则“是最低级的意识形态,它距离物质基础最近,受社会物质基础的束缚最大。”
王亜南氏はこの距離の遠さによって、哲学を最上級の意識形態であると称しているのです。なぜなら哲学は物質基礎から最も離れていて、社会物質の束縛から一番弱いという立場にあるからであると主張しています。そのかわりに経済学は最低級の意識形態と考えております。それはやはり物質基礎から最も近くに存在し、社会物質の束縛が一番強いからと考えているのです。
王亜南氏は経済学と哲学の共通性についてこう述べております。2つのものは同じく特定の某社会歴史段階の物質基礎の反映である。特定歴史的段階の社会意識であると。この2つの相違は反映した社会基礎距離の違いにあると主張しているわけです。
由此距离的远近,王亚南称哲学是最高级的意识形态,因为“它距离物质基础最远,受社会物质基础的束缚最少”,而经济学则“是最低级的意识形态,它距离物质基础最近,受社会物质基础的束缚最大。”
王亜南氏はこの距離の遠さによって、哲学を最上級の意識形態であると称しているのです。なぜなら哲学は物質基礎から最も離れていて、社会物質の束縛から一番弱いという立場にあるからであると主張しています。そのかわりに経済学は最低級の意識形態と考えております。それはやはり物質基礎から最も近くに存在し、社会物質の束縛が一番強いからと考えているのです。
王亚南的见解与恩格斯是一脉相承的。恩格斯曾经说过“更高的即更远离物质经济基础的意识形态,采取了哲学和宗教的形式。”
王亜南氏の見解はエンゲルスの考え方とよく似ている。エンゲルスは「最も高い、すなわち最も物質経済基礎から離れた意識形態は哲学および宗教の形で現れる」と言っております。
恩格斯所谓更高更远,王亚南所谓高级低级,都是指的意识形态离经济基础的远近。
その中でエンゲルスが言っていた「最も高い、最も遠い」というものは、王亜南氏の言っている高級・低級というものは、皆意識形態が物質基礎から離れた距離を指しているわけです。
王亚南认为,距离不同,经济学与哲学受到经济基础的束缚力大小是不同的。
王亜南氏はこの距離の遠さで、経済学および哲学はそれ自身が受けている、そしてそれ自身が反映している経済基礎の束縛力の強さも違うと主張しています。
他以18世纪英、法、德三国为例。以经济发展排序,是英国为先、法国次之,德国最后。而从学科发展来看,则“经济学较发达于英国,社会学较发达于法国,哲学较发达于德国”。
彼は18世紀のイギリス、フランス、ドイツの事例を上げていたのです-けれども、この3つの国の中では経済の発展の程度からいえば、まずイギリスが先にあるわけです。それからフランス、ドイツの順番になっているのですが、しかし学科の発展からいえば、経済学はイギリスにおいて最も先進的である。社会学はフランスで最も先進的である。哲学はドイツが最も先進である。
经济较落后的德国能够吸收英法的精华使其哲学发展为较高级的形态,说明“哲学对于社会物质基础的伸缩性为大,而在经济学却是较小的。”
経済が比較的遅れているドイツは、イギリスおよびフランスのこの思想の精粋の部分を受け入れて自分の哲学を比較的高級な形態に発展させることができた。
これは哲学が社会物質基礎に対して非常に伸縮性が強い。その代わりに経済学は非常に弱いということを証明できたと思います。
王亜南氏の見解はエンゲルスの考え方とよく似ている。エンゲルスは「最も高い、すなわち最も物質経済基礎から離れた意識形態は哲学および宗教の形で現れる」と言っております。
恩格斯所谓更高更远,王亚南所谓高级低级,都是指的意识形态离经济基础的远近。
その中でエンゲルスが言っていた「最も高い、最も遠い」というものは、王亜南氏の言っている高級・低級というものは、皆意識形態が物質基礎から離れた距離を指しているわけです。
王亚南认为,距离不同,经济学与哲学受到经济基础的束缚力大小是不同的。
王亜南氏はこの距離の遠さで、経済学および哲学はそれ自身が受けている、そしてそれ自身が反映している経済基礎の束縛力の強さも違うと主張しています。
他以18世纪英、法、德三国为例。以经济发展排序,是英国为先、法国次之,德国最后。而从学科发展来看,则“经济学较发达于英国,社会学较发达于法国,哲学较发达于德国”。
彼は18世紀のイギリス、フランス、ドイツの事例を上げていたのです-けれども、この3つの国の中では経済の発展の程度からいえば、まずイギリスが先にあるわけです。それからフランス、ドイツの順番になっているのですが、しかし学科の発展からいえば、経済学はイギリスにおいて最も先進的である。社会学はフランスで最も先進的である。哲学はドイツが最も先進である。
经济较落后的德国能够吸收英法的精华使其哲学发展为较高级的形态,说明“哲学对于社会物质基础的伸缩性为大,而在经济学却是较小的。”
経済が比較的遅れているドイツは、イギリスおよびフランスのこの思想の精粋の部分を受け入れて自分の哲学を比較的高級な形態に発展させることができた。
これは哲学が社会物質基礎に対して非常に伸縮性が強い。その代わりに経済学は非常に弱いということを証明できたと思います。
经济学对社会物质基础的反映具有直接性的特点,而哲学则是间接反映。
経済学は社会物質基礎に対してその反映が非常に直接であり、一方哲学の場合はその反応は非常に間接的であると言っています。
在哲学中“观念同自己的物质存在条件的联系,越来越错综复杂,越来越被一些中间环节弄模糊了”。使得这种联系不易被发现。
哲学の中で観念と自分の物質存在条件との間にはその関係があるのですが、その関係はますます複雑になっているわけです。ますます中間的な部分が見えにくくなってきているわけです。その関連性というものは簡単に見つけ出すことができなくなっています。
这种中间环节的作用是双向的。它既使哲学反映经济基础要经过若干中间环节,又使它反作用于经济基础也要经过若干中间环节。而经济学正是最重要的中间环节之一。
この中間部分の作用には2つの方向性があるのですけれども、まず哲学が経済基礎を反映するところは若干中間部分を通すのですが、また哲学が経済基礎に対して反対の作用もするのですが、これも若干中間部分を通すわけであります。経済学は最も重要な中間部分の1つであるということです。
王亚南认为,由于两者都是社会物质基础的反映,因而“两者同是实践之学、历史之学”。
王亜南氏はこの2つとも社会物質基礎の反映であるから、2つとも実践の学でありかつ歴史的な学でもあると考えています。
在这一基础上,哲学把整个人类的知识,在完整的世界观上统一起来;
これを基にして、哲学は人間の全部の知識を完全な世界観の上で統一した。
经济学的特殊法则被抽象、被吸收而内涵于这一总的法则中。哲学的法则,成为经济学的方法论;经济学的法则,又成为这一总的法则之一特殊侧面具体化。
経済学の特殊な法則は抽象され、受け入れられて、この総法則の中に含まれている。哲学の法則は経済学の方法論になり、経済学の法則はこの総法則の特殊な側面の1つになり具体化されている。
而经济学所得到的正确结论,对于正确的哲学世界观之形成,也是一个极大的贡献。王亚南并且强调,“由于两者是实践的学问,同时是历史的学问,所以我们无论是研究哲学也好,研究经济学也好,都不要忘记哲学与经济学在现阶段中国的实践的与历史的任务。”
王亜南氏はこれについて、2つとも実践的な学問であると同時に、歴史的な学であるから私たち哲学を研究している学者であれ、経済学を研究している学者であれ、哲学と経済学の現段階に果たしている中国の実践的かつ歴史的な任務を忘れてはいけないと強調しました。
経済学は社会物質基礎に対してその反映が非常に直接であり、一方哲学の場合はその反応は非常に間接的であると言っています。
在哲学中“观念同自己的物质存在条件的联系,越来越错综复杂,越来越被一些中间环节弄模糊了”。使得这种联系不易被发现。
哲学の中で観念と自分の物質存在条件との間にはその関係があるのですが、その関係はますます複雑になっているわけです。ますます中間的な部分が見えにくくなってきているわけです。その関連性というものは簡単に見つけ出すことができなくなっています。
这种中间环节的作用是双向的。它既使哲学反映经济基础要经过若干中间环节,又使它反作用于经济基础也要经过若干中间环节。而经济学正是最重要的中间环节之一。
この中間部分の作用には2つの方向性があるのですけれども、まず哲学が経済基礎を反映するところは若干中間部分を通すのですが、また哲学が経済基礎に対して反対の作用もするのですが、これも若干中間部分を通すわけであります。経済学は最も重要な中間部分の1つであるということです。
王亚南认为,由于两者都是社会物质基础的反映,因而“两者同是实践之学、历史之学”。
王亜南氏はこの2つとも社会物質基礎の反映であるから、2つとも実践の学でありかつ歴史的な学でもあると考えています。
在这一基础上,哲学把整个人类的知识,在完整的世界观上统一起来;
これを基にして、哲学は人間の全部の知識を完全な世界観の上で統一した。
经济学的特殊法则被抽象、被吸收而内涵于这一总的法则中。哲学的法则,成为经济学的方法论;经济学的法则,又成为这一总的法则之一特殊侧面具体化。
経済学の特殊な法則は抽象され、受け入れられて、この総法則の中に含まれている。哲学の法則は経済学の方法論になり、経済学の法則はこの総法則の特殊な側面の1つになり具体化されている。
而经济学所得到的正确结论,对于正确的哲学世界观之形成,也是一个极大的贡献。王亚南并且强调,“由于两者是实践的学问,同时是历史的学问,所以我们无论是研究哲学也好,研究经济学也好,都不要忘记哲学与经济学在现阶段中国的实践的与历史的任务。”
王亜南氏はこれについて、2つとも実践的な学問であると同時に、歴史的な学であるから私たち哲学を研究している学者であれ、経済学を研究している学者であれ、哲学と経済学の現段階に果たしている中国の実践的かつ歴史的な任務を忘れてはいけないと強調しました。
王亚南关于建立“中国经济学”的倡议及其理论实践,正是表现这一思想的典范。
王亜南氏が「中国経済学」を創立するにあたって行った提案と理論的実践は、この思想を表す模範である。
从经济学的实践性和历史性出发,王亚南提出要创建深深扎根于中国现实经济的土壤之中,“特别有利于中国人阅读,特别能引起中国人的兴趣”,“特别具有改造中国社会经济,解除中国思想束缚的性质与内容的政治经济学”。
経済学の実践性と歴史性から、王亜南氏は深く中国の現実の土壌の中に根を張り、特に中国人が読むのに適している、中国人が興味を持っている、特に中国の社会経済を改造でき、中国思想の束縛から解除できる性質と内容を持っている政治経済学を提唱したわけであります。
王亚南自己撰写的《中国经济原论》,对中国半封建半殖民地社会生产关系下的诸经济倾向进行了全面的考察和研究,曾经被学术界誉为中国式的资本论。
王亜南氏が編集した「中国経済原論」という本は、これは中国の半封建半植民地的な社会生産関係のもとにおいての経済傾向に対して、全面的な調査と研究を行ったものである。学界ではこの本につきましては中国式の資本論と称されている。
而他的《中国官僚政治研究》,由于直面中国特色的政治实践和政治哲学,也同样是反映社会科学实践性和历史性的力作。
さらに、彼の「中国官僚政治研究」という著書ですけれども、これも中国の特色がある政治実践および政治哲学を直視したから、同じく中国の社会科学実践性と歴史性を反映する力作であります。
经济学与哲学的关联性特别突出地表现在二者的历史发展中。
経済学と哲学との関連性は2つの歴史発展の中で見いだすことができます。
首先,经济学是由哲学分离出来又在哲学影响下形成的。
まず経済学は哲学から分離しているものである。また経済学というのは哲学の影響下において形成されたものでもあります。
王亚南指出,最初,经济学是混在哲学领域中研究的。
王亜南氏はまず、経済学は哲学の領域の中に混ぜ込まれて研究されたものであると提起しています。
随着近代工业和资本主义的兴起,经济生活的复杂化和大量实际问题和理论问题的出现,寻求社会中经济现象因果法则的科学研究的发展和积累,在包罗万象的哲学中,经济学开始经历萌芽、形成和壮大的过程,并最终具备了独立的条件。
近代工業と資本主義の勃興にしたがいまして、経済生活がますます複雑化した。大量の実際問題と理論問題が発生したわけです。社会の中の経済現象の因果法則を追求する科学研究が発展し蓄積されるにつれて、経済学は徐々に芽生え、そして形成、成長という過程を通して、最後には独立できる条件を満たしたのであります。
正如爱因斯坦所言,哲学是一切科学之母。
アインシュタインが言った通り、哲学はすべての科学の母である。
孩子幼年总是在母亲的怀抱中成长,但孩子长大了自然要分家。
子どもは幼い頃母の懐の中で育てられ、大人になった後に分家するわけであります。
近代以来的科学发展,不断经历着具体科学从哲学中分离出来的过程。最早分出去的是自然科学,随后是社会科学。
近代においては科学の発展というものは、絶え間なく具体的な科学が哲学から離れていく過程を経験している。最初に離れていったのは自然科学である。そのあとに離れていったのは社会科学である。
王亚南认为,“经济学是社会科学中最基本的科学”,也是首先从哲学独立出来的社会科学。
王亜南氏は、経済学は社会科学の中で最も基本的な科学であり、最初に哲学から分離していった社会科学でもあると考えております。
其次,经济学从哲学独立出来后,它与哲学的关联性并没有消失。它一方面继续在哲学的影响下发展,同时又推动哲学的发展。
次に、経済学が哲学から独立したあとも哲学との関連性は無くなっていないわけです。それは哲学の影響のもとで発展し続けると同時に、また哲学の発展そのものも促進したのであります。
王亚南认为,考察配第和斯密的经济学说就可以知道,它们都是“市民的哲学在经济思想上的反映”。
ペティおよびアダム・スミスの研究をすることによって、この二人の経済学説は共に、市民の哲学が経済思想上の反映であるというのがすぐに分かると思います。
配第研究了财富和价值的来源,他的名言是“劳动是财富之父,土地是财富之母。”他的名著《赋税论》专门研究了政府或公共经费的来源、支出以及如何合理有效的问题。被马克思认为是“最有天才创见的经济学研究者之一”。
ペティは財産と価値の源泉を研究したわけであります。彼の名言は「労働は財産の父であり、土地は財産の母である」ということです。彼の名作「税論」では、政府或いは公共経費の支出、およびどうすれば合理的かつ有効に利用できるかということが研究の中心ですけれども、マルクスによれば、ペティという人は最も才能のある経済学者の1人であると賞賛したということです。
配第经济学的哲学基础是英国唯物主义哲学家霍布斯的观点和主张。
ペティの経済学の基礎は、イギリスの唯物主義哲学者ホッブスの観点と主張からなっております。
王亚南指出:“斯密的整个经济学说,是把经济上个人的自私自利本性,作为其研究的出发点。”然而,追求个人利益的最大化并不等于损人利己的合理化。
王亜南氏によれば、スミスの経済学説は、全てにおいて経済的な個人利己性を研究の出発点としたと述べているのですけれども、スミスは、人間が経済活動に従事する時においてはいつでも個人の利益最大化を目標としている。
斯密认为,自由竞争是实现个人利己心的最好社会机制,市场自由主义是最合理的社会形式。
スミスは、自由競争は個人の利己性を実現できる最高の社会規制である。市場自由主義は最も合理的な社会形式であると考えています。
斯密曾师从伦理学家哈奇逊,并且同大哲学家休谟是好友。斯密从人性的研究出发来研究经济学,正和休谟把人性论视为一切科学的前提如出一辙。
スミスは倫理学者であるハキソンの弟子になったことがあり、彼は哲学者であるヒュームとの間では非常に仲が良いいとうことです。スミスは人間性の研究から経済学を研究した。これはヒュームの人間性は全ての科学の前提であるとの認識から出発したものであります。
马克思的经济学与哲学成就,最典型地反映了经济学与哲学在发展中的相互促进。マルクスの経済学および哲学は、最も典型的に経済学と哲学がその発展の中で相互促進することを証明した。
马克思从哲学开始他的理论活动,而为了完成市民社会的解剖,他将主要战场转移到经济学领域,但却始终没有放弃哲学。
マルクスは哲学から自分の理論活動を始めたのですけれども、市民社会の解剖を完全にするために、彼は主な戦場を経済学の領域に移したのですけれども、しかし最後まで哲学を放棄したことはなかったです。
他在19世纪40年代已经提出唯物史观的基本原理。而在随后多年的经济学研究中,这一历史观和他由德国古典哲学中吸取养分而成的唯物辩证法始终是他经济学研究的根本方法。同时,他的经济学研究过程和成果也反过来丰富证实和发展了他的哲学成果。
彼は19世紀の40年代頃には既に唯物史観の基本的な理論を提出していた。それ以降、長い経済学研究の中でこの歴史観と、彼がドイツの古典哲学から受け入れた養分が形成した唯物弁証法は、終始彼の経済学研究の根本的な方法であったわけです。それと同時に、彼の経済学研究過程と成果も、反対的に彼の哲学成果を豊かに証明し、発展させたわけであります。
现代经济学虽然高度分化但仍然没有离开哲学。它在发展中不断地受到哲学价值观和方法论影响,同时也通过它所蕴含的哲学前提、所负载的价值观念对哲学产生影响。
現代経済学は高度に分化したものの、哲学から離れたことはありません。それは発展している間において、哲学の価値観と方法論の影響を受けつつ、同時にそれが含まれた哲学の前提、価値観を通して哲学に影響を与えているわけです。
尽管经济学早已成为一门独立的学科,在当代已经发展为一个庞大的学科群,但是经济学同作为世界观和方法论的哲学之间,仍存在着内在的联系。无论是古典经济学、现代经济学还是马克思主义经济学,都有着自己的哲学基础;
経済学はすでに1つの独立した学科として存在していますけれども、現代では膨大な学科群に発展したわけで、古典経済学、現代経済学、またマルクス経済学はそれぞれ自身の哲学基礎を持っている。理論経済学の根本的な仮説の多くは、まだ哲学的な前提を含んでいます。
流派林立的经济学说之间不断发生的理论论争,也往往涉及认识论和方法论的论争,涉及社会哲学、伦理学的论争。实际上,只要经济实践主体和经济理论主体具有自己的世界观、价值观和方法论,那么王亚南所论述的经济学与哲学的关联性就必然会不断表现出来。
さまざまな流派の経済学説の間で継続的に発生した理論的な検討は、しばしば認識論と方法論の検討、社会哲学と倫理学との検討に関わっている。現実的には経済実践の主体および経済理論の主体が、その自身の世界観、価値観、方法論を持つなら、王亜南氏の述べた経済学と哲学との関連性が必ず表れ続けると考えています。
经济学与哲学的关联性还特别集中地反映在一些大学者本身的一身二任。即大经济学家往往有较高的哲学素养,而大哲学家则常常是经济思想家。
経済学と哲学との関連性は、特に集中的に或いは大学者の1人が2つの身分を持っていることに反映されている。すなわち、偉大な経済学者はしばしば高い哲学素養を持っており、偉大な哲学者はしばしば経済の思想家でもあるということに反映されています。
王亜南氏が「中国経済学」を創立するにあたって行った提案と理論的実践は、この思想を表す模範である。
从经济学的实践性和历史性出发,王亚南提出要创建深深扎根于中国现实经济的土壤之中,“特别有利于中国人阅读,特别能引起中国人的兴趣”,“特别具有改造中国社会经济,解除中国思想束缚的性质与内容的政治经济学”。
経済学の実践性と歴史性から、王亜南氏は深く中国の現実の土壌の中に根を張り、特に中国人が読むのに適している、中国人が興味を持っている、特に中国の社会経済を改造でき、中国思想の束縛から解除できる性質と内容を持っている政治経済学を提唱したわけであります。
王亚南自己撰写的《中国经济原论》,对中国半封建半殖民地社会生产关系下的诸经济倾向进行了全面的考察和研究,曾经被学术界誉为中国式的资本论。
王亜南氏が編集した「中国経済原論」という本は、これは中国の半封建半植民地的な社会生産関係のもとにおいての経済傾向に対して、全面的な調査と研究を行ったものである。学界ではこの本につきましては中国式の資本論と称されている。
而他的《中国官僚政治研究》,由于直面中国特色的政治实践和政治哲学,也同样是反映社会科学实践性和历史性的力作。
さらに、彼の「中国官僚政治研究」という著書ですけれども、これも中国の特色がある政治実践および政治哲学を直視したから、同じく中国の社会科学実践性と歴史性を反映する力作であります。
经济学与哲学的关联性特别突出地表现在二者的历史发展中。
経済学と哲学との関連性は2つの歴史発展の中で見いだすことができます。
首先,经济学是由哲学分离出来又在哲学影响下形成的。
まず経済学は哲学から分離しているものである。また経済学というのは哲学の影響下において形成されたものでもあります。
王亚南指出,最初,经济学是混在哲学领域中研究的。
王亜南氏はまず、経済学は哲学の領域の中に混ぜ込まれて研究されたものであると提起しています。
随着近代工业和资本主义的兴起,经济生活的复杂化和大量实际问题和理论问题的出现,寻求社会中经济现象因果法则的科学研究的发展和积累,在包罗万象的哲学中,经济学开始经历萌芽、形成和壮大的过程,并最终具备了独立的条件。
近代工業と資本主義の勃興にしたがいまして、経済生活がますます複雑化した。大量の実際問題と理論問題が発生したわけです。社会の中の経済現象の因果法則を追求する科学研究が発展し蓄積されるにつれて、経済学は徐々に芽生え、そして形成、成長という過程を通して、最後には独立できる条件を満たしたのであります。
正如爱因斯坦所言,哲学是一切科学之母。
アインシュタインが言った通り、哲学はすべての科学の母である。
孩子幼年总是在母亲的怀抱中成长,但孩子长大了自然要分家。
子どもは幼い頃母の懐の中で育てられ、大人になった後に分家するわけであります。
近代以来的科学发展,不断经历着具体科学从哲学中分离出来的过程。最早分出去的是自然科学,随后是社会科学。
近代においては科学の発展というものは、絶え間なく具体的な科学が哲学から離れていく過程を経験している。最初に離れていったのは自然科学である。そのあとに離れていったのは社会科学である。
王亚南认为,“经济学是社会科学中最基本的科学”,也是首先从哲学独立出来的社会科学。
王亜南氏は、経済学は社会科学の中で最も基本的な科学であり、最初に哲学から分離していった社会科学でもあると考えております。
其次,经济学从哲学独立出来后,它与哲学的关联性并没有消失。它一方面继续在哲学的影响下发展,同时又推动哲学的发展。
次に、経済学が哲学から独立したあとも哲学との関連性は無くなっていないわけです。それは哲学の影響のもとで発展し続けると同時に、また哲学の発展そのものも促進したのであります。
王亚南认为,考察配第和斯密的经济学说就可以知道,它们都是“市民的哲学在经济思想上的反映”。
ペティおよびアダム・スミスの研究をすることによって、この二人の経済学説は共に、市民の哲学が経済思想上の反映であるというのがすぐに分かると思います。
配第研究了财富和价值的来源,他的名言是“劳动是财富之父,土地是财富之母。”他的名著《赋税论》专门研究了政府或公共经费的来源、支出以及如何合理有效的问题。被马克思认为是“最有天才创见的经济学研究者之一”。
ペティは財産と価値の源泉を研究したわけであります。彼の名言は「労働は財産の父であり、土地は財産の母である」ということです。彼の名作「税論」では、政府或いは公共経費の支出、およびどうすれば合理的かつ有効に利用できるかということが研究の中心ですけれども、マルクスによれば、ペティという人は最も才能のある経済学者の1人であると賞賛したということです。
配第经济学的哲学基础是英国唯物主义哲学家霍布斯的观点和主张。
ペティの経済学の基礎は、イギリスの唯物主義哲学者ホッブスの観点と主張からなっております。
王亚南指出:“斯密的整个经济学说,是把经济上个人的自私自利本性,作为其研究的出发点。”然而,追求个人利益的最大化并不等于损人利己的合理化。
王亜南氏によれば、スミスの経済学説は、全てにおいて経済的な個人利己性を研究の出発点としたと述べているのですけれども、スミスは、人間が経済活動に従事する時においてはいつでも個人の利益最大化を目標としている。
斯密认为,自由竞争是实现个人利己心的最好社会机制,市场自由主义是最合理的社会形式。
スミスは、自由競争は個人の利己性を実現できる最高の社会規制である。市場自由主義は最も合理的な社会形式であると考えています。
斯密曾师从伦理学家哈奇逊,并且同大哲学家休谟是好友。斯密从人性的研究出发来研究经济学,正和休谟把人性论视为一切科学的前提如出一辙。
スミスは倫理学者であるハキソンの弟子になったことがあり、彼は哲学者であるヒュームとの間では非常に仲が良いいとうことです。スミスは人間性の研究から経済学を研究した。これはヒュームの人間性は全ての科学の前提であるとの認識から出発したものであります。
马克思的经济学与哲学成就,最典型地反映了经济学与哲学在发展中的相互促进。マルクスの経済学および哲学は、最も典型的に経済学と哲学がその発展の中で相互促進することを証明した。
马克思从哲学开始他的理论活动,而为了完成市民社会的解剖,他将主要战场转移到经济学领域,但却始终没有放弃哲学。
マルクスは哲学から自分の理論活動を始めたのですけれども、市民社会の解剖を完全にするために、彼は主な戦場を経済学の領域に移したのですけれども、しかし最後まで哲学を放棄したことはなかったです。
他在19世纪40年代已经提出唯物史观的基本原理。而在随后多年的经济学研究中,这一历史观和他由德国古典哲学中吸取养分而成的唯物辩证法始终是他经济学研究的根本方法。同时,他的经济学研究过程和成果也反过来丰富证实和发展了他的哲学成果。
彼は19世紀の40年代頃には既に唯物史観の基本的な理論を提出していた。それ以降、長い経済学研究の中でこの歴史観と、彼がドイツの古典哲学から受け入れた養分が形成した唯物弁証法は、終始彼の経済学研究の根本的な方法であったわけです。それと同時に、彼の経済学研究過程と成果も、反対的に彼の哲学成果を豊かに証明し、発展させたわけであります。
现代经济学虽然高度分化但仍然没有离开哲学。它在发展中不断地受到哲学价值观和方法论影响,同时也通过它所蕴含的哲学前提、所负载的价值观念对哲学产生影响。
現代経済学は高度に分化したものの、哲学から離れたことはありません。それは発展している間において、哲学の価値観と方法論の影響を受けつつ、同時にそれが含まれた哲学の前提、価値観を通して哲学に影響を与えているわけです。
尽管经济学早已成为一门独立的学科,在当代已经发展为一个庞大的学科群,但是经济学同作为世界观和方法论的哲学之间,仍存在着内在的联系。无论是古典经济学、现代经济学还是马克思主义经济学,都有着自己的哲学基础;
経済学はすでに1つの独立した学科として存在していますけれども、現代では膨大な学科群に発展したわけで、古典経済学、現代経済学、またマルクス経済学はそれぞれ自身の哲学基礎を持っている。理論経済学の根本的な仮説の多くは、まだ哲学的な前提を含んでいます。
流派林立的经济学说之间不断发生的理论论争,也往往涉及认识论和方法论的论争,涉及社会哲学、伦理学的论争。实际上,只要经济实践主体和经济理论主体具有自己的世界观、价值观和方法论,那么王亚南所论述的经济学与哲学的关联性就必然会不断表现出来。
さまざまな流派の経済学説の間で継続的に発生した理論的な検討は、しばしば認識論と方法論の検討、社会哲学と倫理学との検討に関わっている。現実的には経済実践の主体および経済理論の主体が、その自身の世界観、価値観、方法論を持つなら、王亜南氏の述べた経済学と哲学との関連性が必ず表れ続けると考えています。
经济学与哲学的关联性还特别集中地反映在一些大学者本身的一身二任。即大经济学家往往有较高的哲学素养,而大哲学家则常常是经济思想家。
経済学と哲学との関連性は、特に集中的に或いは大学者の1人が2つの身分を持っていることに反映されている。すなわち、偉大な経済学者はしばしば高い哲学素養を持っており、偉大な哲学者はしばしば経済の思想家でもあるということに反映されています。
王亚南认为,在近代的大经济学家中,特别强调经济学与哲学之联系的,要算约翰·穆勒了。穆勒认为,“经济学与社会哲学其他部门,在不可分离地纽结着”。
王亜南氏は、近代の偉大な経済学者の中で最も経済学と哲学との関連性を強調したのはジョン・ミルであると言っています。ミルは経済学と社会哲学のほかの部門は分かれなくつながっていると考えています。
而在斯密那里,经济学与哲学始终是紧密相联的,他不仅发表了经济学巨著《国富论》,而且撰写了哲学伦理学的名篇《道德情操论》。
アダム・スミスの考え方の中でも、経済学と哲学は終始緊密につながっていると考えています。彼は「国富論」だけでなく、哲学倫理学上の名作「道徳情操論」というのも発表したわけです。
而马克思更是集经济学家与哲学家于一身的典型。马克思一生有两大发现,即唯物史观和剩余价值学说。前者使得哲学领域发生了根本的革命,后者奠定了马克思经济学说的基石。这两大发现使得马克思成为影响人类命运的大哲学家和大经济学家。
マルクスはさらに経済学者と哲学者を一身に集中した最も代表的な人物である。彼は一生に2つの発見をしました。つまり唯物史観と剰余価値学説を発見したことであります。前者は哲学領域に徹底的な革命を引き起こした。後者はマルクス経済学説の基礎を築き上げたわけです。この2つの発見はマルクスを人類の運命に影響を与えた偉大な哲学者と経済学者にさせたわけであります。
王亚南本身也是一个很好的典范。
王亜南氏自身も非常に良い例であります。
他对中国半封建半殖民地经济形态的理论研究,对中国新民主主义经济和社会主义经济的研究,对中国社会经济史的研究,特别是他对《资本论》的翻译以及翻译过程中对马克思经济学说的研究,等,都作出了杰出的贡献。
彼の中国の半封建半植民地経済に関する理論的な研究は、中国の新民主主義経済と社会主義経済の研究、さらに中国の社会経済史の研究、そして特に彼の資本論の翻訳および翻訳の中に行われたマルクス経済学説と経済学説史の研究に対して重要な貢献を与えたわけであります。
他出版著译40余部,发表论文300多篇,成为中国经济学领域一代大师。
彼は40冊以上にのぼる著書や訳本、さらに300以上の論文を発表した、中国経済学分野においての大家であります。
同时,从他一生的学术活动,从他的许多著述中,我们又可以看到他对古代哲学近代哲学的涉猎和对马克思主义哲学的研究。
そして、彼の一生の学術活動、彼のたくさんの著書から、我々としては彼の古代哲学、近代哲学に関する研究、およびマルクス哲学に関する研究をみることができます。
他在20世纪50和60年代的著述,都集中地表明了他的较高的哲学素养。正是这种素质使他超越了一般的经济学家而成为具有现代哲学素养的跨学科的大学者。
彼の20世紀の50年代、60年代の研究から分かるように、彼は非常に高い哲学素養を持っている学者である。この素養こそが彼を普通の経済学者を越えさせ、現在哲学素養を持つ科学を超える科学者にさせたのであります。
在当代,有成就的经济学家也往往有自己的哲学思想。
現代でも成功した経済学者はしばしば自分の哲学思想を持っております。
如诺贝尔经济学奖得主西蒙、弗里德曼、布坎南、贝克尔、等,就都有相当的哲学素养;哈耶克、阿马蒂亚·森等人则够得上是杰出哲学家了。
例えば、ノーベル経済学賞の受賞者であるサイモン、フリードマン、ブキャナンなどは相当の哲学素養を持っております。ハイエク、さらにアマルティア・センという人は、西洋の哲学界でも非常に有名な学者である。
在日本,大家所熟知的河上肇、见田石介等著名经济学家,也都是有哲学造诣的大师。
日本でも皆さんのご存じの河上肇氏、見田石介氏などの有名な経済学者も同時に、非常に高い哲学素養を持っているわけです。
反过来,哲学家也有不少是经济思想家。
一方、哲学者の中にも、同時に経済学者である人も少なくない。
古代希腊的大哲学家柏拉图和亚里士多德,就可以因其价值论与分工论被看作是经济思想家,而哲学家色诺芬则同时是古代著名的经济政策家。
古代ギリシアの哲学者プラトンとアリストテレスは、価値論と分業論で経済思想家と見なすことができますけれども、さらに哲学者サイラスは同時に古代の有名な経済政策者でもあるわけです。
就是在经济学从哲学分离出来以后,还有许多大哲学家也同时是经济思想家。德国的费希特、黑格尔,英国的休谟、洛克,法国的孟德斯鸠、魁奈,就都是一身二任者。马克思就更不用说了。
経済学は哲学から分離した後も、まだたくさんの哲学者は同時に経済の思想家でもあるわけです。マルクスはいうまでもなく、ドイツのフェーシトル、ヘーゲル、イギリスのヒューム、ロック、フランスのモンテスキュー、ケネーなどはみんなそうであります。
在现代,学科的分化越来越细致,同时学科的渗透和交叉也在发展。因而好的经济学家仍然不缺哲学素养,而社会哲学家更不能忽视社会的经济现象。
現代、学科の分化はますます細分化しております。同時に学科間の浸透と交差も発展しているわけです。優秀な経済学者は前と同じように哲学の素養を欠かすことができません。社会哲学者も社会の経済現象を無視することはできない。
为什么哲学家要兼重经济现象的研究呢?王亚南认为,从研究的角度说,无论任何社会,经济生活总是人类生活的基础。所以经济现象是意识形态中最易反映又最重要的部分,因此也是哲学家不能不涉及的部分;
なぜ哲学者が経済現象の研究を重視しなければならないかというと、王亜南氏はこう考えています。経済的な観点から見れば、社会も経済生活も、人間生活の基盤である。だから経済現象は意識形態の中に最も反映しやすく、最も重要な部分であり、それ故に哲学者は避けられない部分でもあるわけです。
从实践的角度说,无论国家或个人之间的利害关系,总是以经济上的利害为主,使得哲学家不能回避经济问题。
実践的な観点から見れば、国或いは個人の利害関係は、いつも経済上の利害を主とし、哲学者の避けられない問題であります。
他的思想对于我们今天仍有极大的启迪。
彼の思想には我々に対して今日でも大きな啓示があります。
中国今天处在从传统社会向现代社会的转型之中,而这个转型的基础,正是经济体制的转型。如果哲学要想真正成为“时代精神的精华”,就不能回避时代的基本主题的经济问题。
中国は現在、伝統社会から現代社会へと移行しつつある時期にあります。この変化の基礎は経済体制の遷移であります。もし私たちが、哲学が本当に時代精神の精粋になるようにしたいのなら、我々は時代の基本的な経済問題を避けるわけにはいかないわけです。
不研究经济,我们怎么研究社会哲学,怎么理解社会发展理论,怎么理解现代化的趋势和寻求中国现代化的道路;
経済を研究しないで、どうして社会哲学を研究できるのか。どうして社会発展の理論を理解できるのか。どうして現代化の傾向を理解できるのか。中国の現代化の道筋をどのように探すことができるのか。
不研究经济,我们怎么理解经济生活中的大量伦理问题。而这些伦理问题正是道德争议的核心和焦点问题,政治生活、文化生活中的伦理问题往往以它为基础并与它紧密相关。不懂经济转型又怎么理解当代中国社会的道德转型;
経済を研究しないと、我々はどのように経済生活の中の大量の倫理問題を理解できるのか。これらの倫理問題は道徳の言い争いの中心と焦点問題であり、政治生活、文化生活の中で倫理問題はそれを基本とし、それと緊密に関係しているわけです。
不理解经济全球化的趋势,我们怎么理解全球化背景下的全球价值和亚洲价值的争论,怎么理解中国社会价值观的转型;
経済のグローバル化の傾向を理解しないと、どうしてグローバル化の状況の下では世界の価値とアジアの価値に関する論争を理解できるのか。どうして中国社会の価値観の変化を理解できるのか。
不研究经济变动对人的精神生活的影响,我们怎么理解当代宗教哲学的发展和民间信仰的变迁,怎么可能对此有科学的应对;
経済の変動が人間の精神において、生活において、どのような影響を与えるのか、ということを理解できるでしょうか、ということです。
不研究经济发展对自然的影响,我们怎么可能有生态哲学的视野和对人类生存环境的反思和坚实的关怀。
さらに、我々は哲学と自然科学の関係を研究しないと、どうして哲学の視野を持ち、人間の生存環境に対して深く反省をし、深い関心を持つことができるのか。
如果没有经济现象和经济学作为中介,哲学特别是社会哲学就很可能陷入贫困。而哲学要摆脱贫困,就一定要走出思辨的“象牙之塔”,从社会实践特别是经济变革中吸取养分,从自然科学和社会科学的广泛领域特别是经济学中提取思想资源,在与经济学的联盟、与整个自然科学和社会科学的联盟中开辟自己的发展道路。
哲学は一連の媒介を通じて社会基礎を反映しているからであります。もしこの経済現象と経済学という媒介がなければ、哲学、特に社会哲学は空虚にしかならないわけです。哲学がこの空虚から逃れようとするのであれば、いわゆる「象牙の塔」から出て、社会実践、特にこの経済変革の中で養分を吸い取って、自然科学と社会科学の広い分野、特に経済学の中の思想の資源を抽出し、経済学との連携、すべての自然科学と社会科学との連携の中で自分の発展の道を開かなければならないわけです。
王亜南氏は、近代の偉大な経済学者の中で最も経済学と哲学との関連性を強調したのはジョン・ミルであると言っています。ミルは経済学と社会哲学のほかの部門は分かれなくつながっていると考えています。
而在斯密那里,经济学与哲学始终是紧密相联的,他不仅发表了经济学巨著《国富论》,而且撰写了哲学伦理学的名篇《道德情操论》。
アダム・スミスの考え方の中でも、経済学と哲学は終始緊密につながっていると考えています。彼は「国富論」だけでなく、哲学倫理学上の名作「道徳情操論」というのも発表したわけです。
而马克思更是集经济学家与哲学家于一身的典型。马克思一生有两大发现,即唯物史观和剩余价值学说。前者使得哲学领域发生了根本的革命,后者奠定了马克思经济学说的基石。这两大发现使得马克思成为影响人类命运的大哲学家和大经济学家。
マルクスはさらに経済学者と哲学者を一身に集中した最も代表的な人物である。彼は一生に2つの発見をしました。つまり唯物史観と剰余価値学説を発見したことであります。前者は哲学領域に徹底的な革命を引き起こした。後者はマルクス経済学説の基礎を築き上げたわけです。この2つの発見はマルクスを人類の運命に影響を与えた偉大な哲学者と経済学者にさせたわけであります。
王亚南本身也是一个很好的典范。
王亜南氏自身も非常に良い例であります。
他对中国半封建半殖民地经济形态的理论研究,对中国新民主主义经济和社会主义经济的研究,对中国社会经济史的研究,特别是他对《资本论》的翻译以及翻译过程中对马克思经济学说的研究,等,都作出了杰出的贡献。
彼の中国の半封建半植民地経済に関する理論的な研究は、中国の新民主主義経済と社会主義経済の研究、さらに中国の社会経済史の研究、そして特に彼の資本論の翻訳および翻訳の中に行われたマルクス経済学説と経済学説史の研究に対して重要な貢献を与えたわけであります。
他出版著译40余部,发表论文300多篇,成为中国经济学领域一代大师。
彼は40冊以上にのぼる著書や訳本、さらに300以上の論文を発表した、中国経済学分野においての大家であります。
同时,从他一生的学术活动,从他的许多著述中,我们又可以看到他对古代哲学近代哲学的涉猎和对马克思主义哲学的研究。
そして、彼の一生の学術活動、彼のたくさんの著書から、我々としては彼の古代哲学、近代哲学に関する研究、およびマルクス哲学に関する研究をみることができます。
他在20世纪50和60年代的著述,都集中地表明了他的较高的哲学素养。正是这种素质使他超越了一般的经济学家而成为具有现代哲学素养的跨学科的大学者。
彼の20世紀の50年代、60年代の研究から分かるように、彼は非常に高い哲学素養を持っている学者である。この素養こそが彼を普通の経済学者を越えさせ、現在哲学素養を持つ科学を超える科学者にさせたのであります。
在当代,有成就的经济学家也往往有自己的哲学思想。
現代でも成功した経済学者はしばしば自分の哲学思想を持っております。
如诺贝尔经济学奖得主西蒙、弗里德曼、布坎南、贝克尔、等,就都有相当的哲学素养;哈耶克、阿马蒂亚·森等人则够得上是杰出哲学家了。
例えば、ノーベル経済学賞の受賞者であるサイモン、フリードマン、ブキャナンなどは相当の哲学素養を持っております。ハイエク、さらにアマルティア・センという人は、西洋の哲学界でも非常に有名な学者である。
在日本,大家所熟知的河上肇、见田石介等著名经济学家,也都是有哲学造诣的大师。
日本でも皆さんのご存じの河上肇氏、見田石介氏などの有名な経済学者も同時に、非常に高い哲学素養を持っているわけです。
反过来,哲学家也有不少是经济思想家。
一方、哲学者の中にも、同時に経済学者である人も少なくない。
古代希腊的大哲学家柏拉图和亚里士多德,就可以因其价值论与分工论被看作是经济思想家,而哲学家色诺芬则同时是古代著名的经济政策家。
古代ギリシアの哲学者プラトンとアリストテレスは、価値論と分業論で経済思想家と見なすことができますけれども、さらに哲学者サイラスは同時に古代の有名な経済政策者でもあるわけです。
就是在经济学从哲学分离出来以后,还有许多大哲学家也同时是经济思想家。德国的费希特、黑格尔,英国的休谟、洛克,法国的孟德斯鸠、魁奈,就都是一身二任者。马克思就更不用说了。
経済学は哲学から分離した後も、まだたくさんの哲学者は同時に経済の思想家でもあるわけです。マルクスはいうまでもなく、ドイツのフェーシトル、ヘーゲル、イギリスのヒューム、ロック、フランスのモンテスキュー、ケネーなどはみんなそうであります。
在现代,学科的分化越来越细致,同时学科的渗透和交叉也在发展。因而好的经济学家仍然不缺哲学素养,而社会哲学家更不能忽视社会的经济现象。
現代、学科の分化はますます細分化しております。同時に学科間の浸透と交差も発展しているわけです。優秀な経済学者は前と同じように哲学の素養を欠かすことができません。社会哲学者も社会の経済現象を無視することはできない。
为什么哲学家要兼重经济现象的研究呢?王亚南认为,从研究的角度说,无论任何社会,经济生活总是人类生活的基础。所以经济现象是意识形态中最易反映又最重要的部分,因此也是哲学家不能不涉及的部分;
なぜ哲学者が経済現象の研究を重視しなければならないかというと、王亜南氏はこう考えています。経済的な観点から見れば、社会も経済生活も、人間生活の基盤である。だから経済現象は意識形態の中に最も反映しやすく、最も重要な部分であり、それ故に哲学者は避けられない部分でもあるわけです。
从实践的角度说,无论国家或个人之间的利害关系,总是以经济上的利害为主,使得哲学家不能回避经济问题。
実践的な観点から見れば、国或いは個人の利害関係は、いつも経済上の利害を主とし、哲学者の避けられない問題であります。
他的思想对于我们今天仍有极大的启迪。
彼の思想には我々に対して今日でも大きな啓示があります。
中国今天处在从传统社会向现代社会的转型之中,而这个转型的基础,正是经济体制的转型。如果哲学要想真正成为“时代精神的精华”,就不能回避时代的基本主题的经济问题。
中国は現在、伝統社会から現代社会へと移行しつつある時期にあります。この変化の基礎は経済体制の遷移であります。もし私たちが、哲学が本当に時代精神の精粋になるようにしたいのなら、我々は時代の基本的な経済問題を避けるわけにはいかないわけです。
不研究经济,我们怎么研究社会哲学,怎么理解社会发展理论,怎么理解现代化的趋势和寻求中国现代化的道路;
経済を研究しないで、どうして社会哲学を研究できるのか。どうして社会発展の理論を理解できるのか。どうして現代化の傾向を理解できるのか。中国の現代化の道筋をどのように探すことができるのか。
不研究经济,我们怎么理解经济生活中的大量伦理问题。而这些伦理问题正是道德争议的核心和焦点问题,政治生活、文化生活中的伦理问题往往以它为基础并与它紧密相关。不懂经济转型又怎么理解当代中国社会的道德转型;
経済を研究しないと、我々はどのように経済生活の中の大量の倫理問題を理解できるのか。これらの倫理問題は道徳の言い争いの中心と焦点問題であり、政治生活、文化生活の中で倫理問題はそれを基本とし、それと緊密に関係しているわけです。
不理解经济全球化的趋势,我们怎么理解全球化背景下的全球价值和亚洲价值的争论,怎么理解中国社会价值观的转型;
経済のグローバル化の傾向を理解しないと、どうしてグローバル化の状況の下では世界の価値とアジアの価値に関する論争を理解できるのか。どうして中国社会の価値観の変化を理解できるのか。
不研究经济变动对人的精神生活的影响,我们怎么理解当代宗教哲学的发展和民间信仰的变迁,怎么可能对此有科学的应对;
経済の変動が人間の精神において、生活において、どのような影響を与えるのか、ということを理解できるでしょうか、ということです。
不研究经济发展对自然的影响,我们怎么可能有生态哲学的视野和对人类生存环境的反思和坚实的关怀。
さらに、我々は哲学と自然科学の関係を研究しないと、どうして哲学の視野を持ち、人間の生存環境に対して深く反省をし、深い関心を持つことができるのか。
如果没有经济现象和经济学作为中介,哲学特别是社会哲学就很可能陷入贫困。而哲学要摆脱贫困,就一定要走出思辨的“象牙之塔”,从社会实践特别是经济变革中吸取养分,从自然科学和社会科学的广泛领域特别是经济学中提取思想资源,在与经济学的联盟、与整个自然科学和社会科学的联盟中开辟自己的发展道路。
哲学は一連の媒介を通じて社会基礎を反映しているからであります。もしこの経済現象と経済学という媒介がなければ、哲学、特に社会哲学は空虚にしかならないわけです。哲学がこの空虚から逃れようとするのであれば、いわゆる「象牙の塔」から出て、社会実践、特にこの経済変革の中で養分を吸い取って、自然科学と社会科学の広い分野、特に経済学の中の思想の資源を抽出し、経済学との連携、すべての自然科学と社会科学との連携の中で自分の発展の道を開かなければならないわけです。
顺便指出,王亚南曾经在20年代和30年代两次来过日本,住在东京。他在这里学习和研究马克思的资本论和经济学,也受到日本马克思主义学者的影响。
ついでですけれども、王亜南氏は1920年代と1930年代、2度にわたって来日したことがあります。東京に住んでいました。彼は日本でマルクスの資本論および経済学を勉強したわけですが、しかも日本のマルクス主義者の影響を強く受けています。
河上肇先生对中国早期的马克思主义学习者和进步青年有广泛影响。当时,厦门市的书店都有公开出售河上肇的书籍,厦门大学的一些老年教授当年做学生时,也阅读过他的著作。今天,厦门大学的图书馆,也藏有河上肇文集。
河上肇先生は中国の早期のマルクス主義者および信奉的な青年に強い影響を与えていました。当時この厦門市内の本屋においては河上肇先生の本を売っていました。さらに現在、この厦門大学では一部の教授、つまり年をとった教授たちは当時、学生であった時には河上先生の著書を読んだことがあります。現在、厦門大学の図書館においても河上肇文集も所蔵しております。
谢谢各位。
長時間、ご静聴いただきましてありがとうございました。
ついでですけれども、王亜南氏は1920年代と1930年代、2度にわたって来日したことがあります。東京に住んでいました。彼は日本でマルクスの資本論および経済学を勉強したわけですが、しかも日本のマルクス主義者の影響を強く受けています。
河上肇先生对中国早期的马克思主义学习者和进步青年有广泛影响。当时,厦门市的书店都有公开出售河上肇的书籍,厦门大学的一些老年教授当年做学生时,也阅读过他的著作。今天,厦门大学的图书馆,也藏有河上肇文集。
河上肇先生は中国の早期のマルクス主義者および信奉的な青年に強い影響を与えていました。当時この厦門市内の本屋においては河上肇先生の本を売っていました。さらに現在、この厦門大学では一部の教授、つまり年をとった教授たちは当時、学生であった時には河上先生の著書を読んだことがあります。現在、厦門大学の図書館においても河上肇文集も所蔵しております。
谢谢各位。
長時間、ご静聴いただきましてありがとうございました。
八木:ありがとうございました。三田先生と張先生のお話を伺いました。今この段階で、休憩に入る前に両先生にお尋ねしたいことがありましたらどうぞ、壇上の方もフロアの方も手を上げてください。いかがですか?
私自身も、今張先生のお話を聞きますと、意識形態に幾つかのレベルがあると、経済学は下のレベルで現実に近いんだということの議論、これは河上肇のいわゆる「意識形態について」という議論を思い出しますし、また王亜南先生が「中国経済学」というふうに言われたのも、これも京都では戦前期に「日本経済学」ということがいわれたので、それもおもしろいと思います。私も中国に行った時に、中国経済学というのがこれから生まれるんだという話を聞きました。こういうことも後で議論をしてみたいと思います。よろしいですか、みなさん…あるいは壇上の方……。それではただいまより10分間休憩をさせていただきます。10分後に再開します。
私自身も、今張先生のお話を聞きますと、意識形態に幾つかのレベルがあると、経済学は下のレベルで現実に近いんだということの議論、これは河上肇のいわゆる「意識形態について」という議論を思い出しますし、また王亜南先生が「中国経済学」というふうに言われたのも、これも京都では戦前期に「日本経済学」ということがいわれたので、それもおもしろいと思います。私も中国に行った時に、中国経済学というのがこれから生まれるんだという話を聞きました。こういうことも後で議論をしてみたいと思います。よろしいですか、みなさん…あるいは壇上の方……。それではただいまより10分間休憩をさせていただきます。10分後に再開します。
八木:それでは時間も押していますので、私の第3の質問をさせていただきます。中国と日本、東アジアの政治経済に未来はあるか? こんなことを言うとテレビなんとかみたいですけれど、例えば階級論であるとか搾取理論というのは果たして有効なんだろうか、あるいは制度経済学を取り入れるというのがありますけれども、制度経済学自体はトランザクションコスト・取引費用や、エフィシェンシーという効率についての議論ですね。ですからそれを超えた物を、政治経済学というか社会経済学は持たなきゃいけない。そうするとそういうことに対する見通し、そういうものはあるのだろうかということについてお尋ねしたいと思います。その中で中国的とかあるいは●が生まれるのか…ですね。
……
張:90年代,在中国﹑尤其在是大学生当中,对日本的某种非友好情绪高涨。我认为,其中原因之一是当今中国多数大学生对日本不够了解。
90年代に入ってから中国では、特に大学生の中では日本に対して一種の非友好的なモードが非常に高まってきているわけなんですけれども、私の考えとしてはその原因につきましてはやはり現在中国の大学生の多くは、日本については理解が不足しているのではないか。
他们所听到的或看到的东西,无论如何只能说是日本人中极少数的或是极小部分的意见和观点。所以,我认为,加强中日两国学术界和民间的交流非常重要。对中国来说,可以向日本学习的东西还有很多。今后,随着交往的加深,中国的年轻人﹑特别是20多岁的大学生,会更多地看到日本的好的方面﹑中国青年更多地抱持往好的方面看的兴趣,我想,今后,中日两国的友好关系会愈发地深入,两国的未来寄希望于年轻一代。
彼らが聞いているもの、あるいは実際に目にしているものはあくまで日本のごく少数の、あるいは日本のごく一部の意見であり、見方であるということなんですけれども、中国にとっては日本に習うべきものがたくさんあるので、やはり今後中国の若者、特に20代の若者がもっともっと日本の良いところを見て、中国の青年がもっともっとそういうものを見て興味をもって、交流を深めていくにつれ、今後日中両国の将来、あるいは今後の友好というものがますます深まっていくだろうと考えています。
中国的市场经济改革,使得中国经济发展的速度非常快,但与此同时,也引发了各种各样的问题。
中国の市場経済改革のスピードは非常に速いものなんですが、それと同時にいろんな問題も発生しているんです。
例如,贫富差距过大的问题,官僚腐败的问题,等,变得愈发严重起来。也就是在经济得到发展的同时也引发了各种各样的问题。
例えば貧富の差の問題、これはますますひどくなってきているんですけどれも、さらに官僚の腐敗など、やはり経済の発展と同時にさまざまな問題も発生しているんですね。
在我看来,今后中国不光是在经济方面,在政治﹑文化方面也应该向先进的发达国家学习,例如欧美或日本等国的先进方面学习。
私の考えとしては、これから中国は経済だけではなくて、政治・文化の面でも例えば欧米、あるいは日本のような先進的なやり方をもっともっと見習うべきである。
比如说,其中应该包括民主化这一课题。我想,当今中国在政治文化方面的民主化问题越来越显得重要。
例えばその中では民主化という課題もあるわけなんですけれども、現在中国の、特に政治文化の面においては民主化という問題がますます重要になってきているのではないかと考えております。
目前为止,政府在经济方面提倡引入资本主义的市场经济,与此同时,对所谓西方思想的自由主义﹑民主化持一种非常排斥的态度。
これまでに政府は経済、つまり資本主義の市場経済をどんどんどんと導入していくというのを提唱してきたわけなんですけれども、しかしそれと同時にいわゆる西洋思想である民主主義、民主化に対しては非常に排除するような考え方をもっているわけなんです。
但是从某种意义上说,当前和未来,民主化是不可回避的问题。在我看来,即使采用社会主义民主这一说法,对此也有试验的必要。虽然过去文化大革命中那样的有错误的“民主化”失败了,我想今后仍有摸索适合中国国情的社会主义民主化的必要。
しかし、どちらかというと民主化というのは現代の、これからの発展にとっては不可欠ではないか。私の考えとしては社会主義の民主化という言葉を使っていますけれども、これに対する実験も必要ではないか。ただしこれまでに文化大革命といったようないわゆる変わった方向での民主化というのは失敗したわけなんですけれども、これからは中国の秩序に合うような社会主義民主化という模索も必要ではないかと考えています。
張:90年代,在中国﹑尤其在是大学生当中,对日本的某种非友好情绪高涨。我认为,其中原因之一是当今中国多数大学生对日本不够了解。
90年代に入ってから中国では、特に大学生の中では日本に対して一種の非友好的なモードが非常に高まってきているわけなんですけれども、私の考えとしてはその原因につきましてはやはり現在中国の大学生の多くは、日本については理解が不足しているのではないか。
他们所听到的或看到的东西,无论如何只能说是日本人中极少数的或是极小部分的意见和观点。所以,我认为,加强中日两国学术界和民间的交流非常重要。对中国来说,可以向日本学习的东西还有很多。今后,随着交往的加深,中国的年轻人﹑特别是20多岁的大学生,会更多地看到日本的好的方面﹑中国青年更多地抱持往好的方面看的兴趣,我想,今后,中日两国的友好关系会愈发地深入,两国的未来寄希望于年轻一代。
彼らが聞いているもの、あるいは実際に目にしているものはあくまで日本のごく少数の、あるいは日本のごく一部の意見であり、見方であるということなんですけれども、中国にとっては日本に習うべきものがたくさんあるので、やはり今後中国の若者、特に20代の若者がもっともっと日本の良いところを見て、中国の青年がもっともっとそういうものを見て興味をもって、交流を深めていくにつれ、今後日中両国の将来、あるいは今後の友好というものがますます深まっていくだろうと考えています。
中国的市场经济改革,使得中国经济发展的速度非常快,但与此同时,也引发了各种各样的问题。
中国の市場経済改革のスピードは非常に速いものなんですが、それと同時にいろんな問題も発生しているんです。
例如,贫富差距过大的问题,官僚腐败的问题,等,变得愈发严重起来。也就是在经济得到发展的同时也引发了各种各样的问题。
例えば貧富の差の問題、これはますますひどくなってきているんですけどれも、さらに官僚の腐敗など、やはり経済の発展と同時にさまざまな問題も発生しているんですね。
在我看来,今后中国不光是在经济方面,在政治﹑文化方面也应该向先进的发达国家学习,例如欧美或日本等国的先进方面学习。
私の考えとしては、これから中国は経済だけではなくて、政治・文化の面でも例えば欧米、あるいは日本のような先進的なやり方をもっともっと見習うべきである。
比如说,其中应该包括民主化这一课题。我想,当今中国在政治文化方面的民主化问题越来越显得重要。
例えばその中では民主化という課題もあるわけなんですけれども、現在中国の、特に政治文化の面においては民主化という問題がますます重要になってきているのではないかと考えております。
目前为止,政府在经济方面提倡引入资本主义的市场经济,与此同时,对所谓西方思想的自由主义﹑民主化持一种非常排斥的态度。
これまでに政府は経済、つまり資本主義の市場経済をどんどんどんと導入していくというのを提唱してきたわけなんですけれども、しかしそれと同時にいわゆる西洋思想である民主主義、民主化に対しては非常に排除するような考え方をもっているわけなんです。
但是从某种意义上说,当前和未来,民主化是不可回避的问题。在我看来,即使采用社会主义民主这一说法,对此也有试验的必要。虽然过去文化大革命中那样的有错误的“民主化”失败了,我想今后仍有摸索适合中国国情的社会主义民主化的必要。
しかし、どちらかというと民主化というのは現代の、これからの発展にとっては不可欠ではないか。私の考えとしては社会主義の民主化という言葉を使っていますけれども、これに対する実験も必要ではないか。ただしこれまでに文化大革命といったようないわゆる変わった方向での民主化というのは失敗したわけなんですけれども、これからは中国の秩序に合うような社会主義民主化という模索も必要ではないかと考えています。
简单回答部分提问。谢谢诸位!
以上です。ありがとうございました。
以上です。ありがとうございました。
八木:今日は非常に刺激的なご報告や、視野を広げるご報告をいただきましたし、フロアからの質問を非常にありがたいのですけど、残念なことにそろそろ締めなければなりません。パネラーの方、特に中国から来られた張先生、三田先生に拍手を送っていただきたいと思います。
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